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弁惑観心抄(日應上人)要文②第1章3節より

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本尊は正宗なり、祖判は流通分なり。また本尊は仏意なり、祖判は機情なり。本尊は自行なり、祖判は化他なり。

『弁惑観心抄』要文の初回、は第一章・第三節の御指南です。「祖判」というのは大聖人の御書のことです。大聖人仏法における正宗分となるの本尊であり御書は流通分。また本尊は仏意であり自行(大聖人の随自意)であり、御書は信徒の信心の理解(機情)に合わせてた説法(随他意)という御本尊と御書の関係を示された御指南です。創価の連中は大聖人仏法の全てが御書に書かれていると勝手に思い込んで、戒壇大御本尊のことなどが御書に書いていないこと根拠に否定しますがそれは全く御書の意義も読み方も知らない異流義の我見です。また創価が正宗(日顕上人)を【御書部分論】と批判しますが、【御書部分論】は日応上人の御指南と道理の上から正しいのです。御書はあくまでも信徒の機情に合わせた説法だから御本尊の部分論です。そもそも高弟だった五老僧すら観心の本尊が分からず仏像を本尊にしていたのですから一般信徒に大聖人が手紙で本尊の甚深の義を明かすわけないなんて事は少し考えれば分かります。それを御書に書いていないから本尊は全部一緒だとか言っている創価学会員の知能の低さには呆れます。池田創価こそ御書に書いていない活動ばかりしていることに気づかないとは哀れです。仏意・正宗分である本尊義は大聖人から日興上人に唯授一人血脈相承されて以降、御歴代法主上人に相承され時の法主上人がその時代の衆生の機情に合わせて随意御指南されていくのです。従って御書は御歴代法主上人の御指南に沿って修学するべき「書」なのです。そして御書とは全て正宗分たる御本尊の説明ですから必ず御本尊に帰結しまた御本尊より開会されるのです。ですから池田創価のように本門戒壇大御本尊を遺棄してしまったら御書を読んでも何の意味もどころか全く我見邪義の謗法となるのです。「御書根本」といのは「戒壇大御本尊根本」ということなのです。いつか詳しく書きますが御本尊の中にも正宗分と流通分があります。自行・仏意の御本尊は弘安二年御建立の本門戒壇の大御本尊のみであり自余の御本尊は大聖人の御真筆であっても相対妙の御本尊です。ましてや御歴代法主上人ご書写の御本尊は戒壇大御本尊より所顕されているのですから流通分に当たるのは当然です。だから正宗分の絶待妙の戒壇大御本尊に帰一しなければ流通分の本尊とはなりません。そのような本尊は本尊としての力用はないので「偽本尊」というのです。また創価顕正会が読む「御書」は「誤書」といえるでしょう。本尊義は御歴代上人が公開している内容だけでも多岐にわたり甚深です。御書だけ読んで理解できるなら五老僧だって御在世の信徒だって理解できはずです。直接から御指南を受けた御在世の弟子檀那ですら御書を読んでも本尊義が分からなかったのです。ましてや無信心の無い習い損ねの池田大作創価教学部・創価学会員に自力で理解できるわけない。そんな異流義のトーシローが本尊を認定しているのがインチキカルト創価学会の本尊なのです。私達、法華講員は日応上人等の御歴代法主上人の御指南を明鏡として、池田創価のような切文インチキ御書教学ではなく正しい教学を身に付けていきましょう。

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