Quantcast
Channel: 創価ダメだしブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 267

信仰とは死と向き合う事。

$
0
0

我が家の6人の猫のうち一番最初に飼った一番年長のライムが13歳で虹の橋を渡りました。我が家の猫を見送ったのはこれで二人目で奇しくも一人目に亡くなったライムの子供のカルアと同じ5月4日が命日です。大人しくて控え目な男子で、我が家で唯一の純血種なので「ライム王子」と呼んでいました。全く苦しむことが無く最後は妻に抱かれて逝きました。今思い出しても泣けます。親や友人、ペット・・何でもそうですが、普段は死ぬなんて思っていませんからそれらを亡くした時の喪失感は大きいです。人間なら誰しもが、他者もそして自分自身もいつかは死ぬという事を知っています。犬猫などの動物には明確な「死の概念」ありません。「死の概念」を持っているのは人間だけです。死の概念があるからこそ、人間は大切な存在を亡くすと涙するのです。ところが人間は普段は「死」から目を背けて動物と同じように生きています。人間が人間らしく生きるためには「死」と向き合うという作業は大切な事です。特に自分自身の「死」と向き合うことは「生」と向き合う事と表裏一体なのです。単に「生」の部分だけを見て、「死」に部分を見ないのは、「生きている」とはいえないと思います。とはいっても現実に生きているのだから「死」を見つめることはなかなか困難であることも確かです。私はここに信仰(宗教)の必要性を感じます。宗教というと世間では、戦後の左翼教育や創価学会等の新興宗教団体の影響からか「現世利益」が目的だと思われがちですが、本来の宗教とは御利益をお願いすることが目的ではありません。仏教が説く人間の幸福とは世間的な自分の欲求が満たされることではなく、「生老病死」を見つめ乗り越えることが仏教等の宗教の教えの本質であり信仰の目的なのです。なかでも「死」は最も重要なファクターです。正しく死と向き合う事ができないと正しく生と向きう事もできず、悪戯に死を恐れたり逆に美化したり或いは無視したりしてしまいます。なので正しく死を見つめることが豊かな人生を生きるためには必要なのです。しかし死を見つめるツールとしての信仰(宗教)には様々な違いあり、どのツール(宗教)を選ぶかによって死の見え方も違ってきて、死の見え方が違うと「生き方」も変わっていくわけです。例えば仏教とキリスト教では「死」に対する概念が全く違います。「宗教はみんな同じ」ではないのです。宗教を選択すべき理由はここにあります。日蓮大聖人は、「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と言われていますが、臨終を学ぶことは宗教を学んで持つということです。死と向き合い臨終を学び信仰を持つことは、「生きる」との意義と価値を知ることなのです。自分の生きる意義と価値を知れば自ずと人間だけでなく生きとし生けるもの全ての生きている意義と価値に思いを馳せることができます。だから私は信仰(宗教)を持つことを無宗教の友人達に薦めています。

在りし日のライム

創価退会相談・質問・疑問・対論など常時コメントを受付ています。メールでの問合せは、「プロフィール」に公開しているアドレスまで。

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

 

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 267

Latest Images

Trending Articles