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弁惑観心抄(日應上人)要文③第1章9節より

通じてこれを言わば上に述べるが如く、あるいは「日蓮等」と言い、あるいは「我等衆生」と言いて、宗祖の金言を信じ。本門寿量文底下種の題目を口唱するの徒は、皆これ宗祖大聖と等しく本有無作の覚体ならざるわなし。しかれども、別してこれを論ずれば、宗祖内証己心所具の一念三千直達正観の南無妙法蓮華経をもって本尊と尊崇奉り、日蓮判の御当体をして久遠元初一迷先達の大祖本仏と崇重し、余はその末流に等しく浴せんとするのみ。故に、通論は傍意にして、別論を正意とす。

この御文は日寛上人の両重の総別義の第二の総別を日応上人が更に会通をされた御指南です。池田創価は題目を唱える者はみな大聖人と等しいという「凡夫本仏論」主張します。「通(総)じて」言えば大聖人の金言を信じ唱題をすれば大聖人と等しく我が身は無作三身として顕れるますが、別して言えば本門寿量文底下種の法体とは大聖人に己心の南無妙法蓮華経の本尊であり、その法体を所具するのは御本仏である大聖人ただ一人なのです。もちろんその本尊とは大聖人の色心二法の当体である本門戒壇大御本尊です。大聖人以外の衆生は、本門戒壇大御本尊の仏力・法力に浴するがゆえに我が身に大聖人と同じ無作三身の仏身が現れるのです。ここに仏(能)と衆生(所)の差別相があります。日応上人はこの「通(総)別」二義に関して、別論が大聖人の正意であり通(総)論は傍意であるとご指南されているのです。日応上人はこの御指南の後段で、「本尊の妙法五字は宗祖己心内証の妙法となりと言うも、日蓮が魂魄の南無妙法蓮華経なりと言うも、皆、別論の辺によっての所談なり。」とも言われています。まだ戸田城聖の手次の師匠である第65世日淳上人は、「凡そ法門に於ては総別の二義があるのでありまして此れを忘れると地獄へ堕ちることになります。日蓮大聖人は「総別の二義を違へば成仏思ひもよらず」と仰せられてありますが、此れは行人の最も心ををくべきところであります。法華経の行者は大聖人唯御一人だけで末法の仏も大聖人であります。総じて申せば妙法を信受する程のものは行者といへますが別して逆縁の衆生でありまして順逆の分別は行功によるところであつて畢竟御一人の仏に対しては凡夫であります。かへすがへすも此のところが根本でありまして、その御本尊を信受し奉る上の修行が題目になるのであります。既に仏身地であらせられる大聖人の建立し玉ふ大曼荼羅を信受し持ち奉ることが肝要でありまして、此れ以外は皆偏見であり邪道であります。」とご指南されています。したがって池田創価の主張する「凡夫本仏論」はあくまでも傍意であり、正意である戒壇大御本尊即御本仏日蓮大聖人の法体を離れて成立ません。このような池田教学は日淳上人が指摘されように偏見・邪道なのです。創価学会は2014年に本門戒壇大御本尊を棄て、さらに最新の教学要綱では日蓮大聖人が御本仏であることも否定しています。従って創価信心で成仏することはありません。いまの創価学会員はもはや「名字即」の位ではなく「理即」の凡夫で且つ謗法者ですから一生成仏どころか必堕無間なのです。一応は現在の創価教学でも大聖人を「末法の御本仏」と仰いでると言っていますが、その主張は末法釈尊の説いた法華経の真髄を宣揚したからと言って大聖人を釈尊の系譜に位置付けています。富士日興門流が大聖人を「末法の御本仏」と尊称するのは、末法において釈迦の法華経を宣揚したからではなく末法において御本仏だけが唯一所持されている本因妙の法体である南無妙法蓮華経を説き顕したからで、大聖人が釈尊の系譜なのではなく釈迦が大聖人の系譜なのです。

創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ

 

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