創価学会員は日蓮正宗の唯授一人血脈相承を荒唐無稽と言って批判する。富士日興門流である日蓮正宗から破門され、日蓮大聖人御本仏論も戒壇大御本尊も捨てた異流儀邪教・創価信徒に何と言われようが我々法華講員は何の痛痒も感じずただ憐れに思うだけだが、こうした創価員の批判を聞くたびに、彼等が宗教に無知であるとつくずく感じる。旧約聖書の創世記や古事記に書かれている神話や仏典に書かれている仏陀の伝説、様々な如来や菩薩も、それらを信じていない人にとっては全ての宗教は荒唐無稽なのが当たり前の話である。いつもいうが、歴史的・科学的事実と宗教的事実は違うのである。宗教的事実を荒唐無稽と批判する人間は信仰者としての資格はない。そもそも「荒唐無稽」というのは創価学会員がいつも誇っている「糞つまらない個人の体験談」のことを言うのである。【荒唐無稽】という言葉の意味は、【言説などがでたらめでよりどころがないさま。▽「荒唐」は言説などによりどころがなく、とりとめのないさま。「無稽」は根拠がないこと。でたらめであること。】(三省堂新明解四字熟語辞典)である。日蓮正宗における唯授一人血脈は、二箇相承などの文証が存在する。唯授一人への相伝は仏法の令法久住が目的であるという理証。そして日興上人爾来、事実として日興門流では唯授一人血脈相承をしてきたという現証と、信不信は別として三証が揃っている。つまり、言説などがでたらめでよりどころがない。という事にならない。それに比べて創価の連中の体験談はなんだ?「創価学会の信心の功徳」なんていっているけど、そのエビデンスとなる文証は、バカのひとつ覚えの「日蓮、仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず。また、道理・証文よりも現証にはすぎず」だけなのだが、大聖人が「実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」と言われているように、文証・理証が揃って初めて正しい現証なのである。従って創価のバカのひとつ覚えの御文は創価信仰が正しいという文証にはならない。むしろ、法門に依らない現証は功徳ではなく「魔の通力」なのである。日淳上人は、「宗教の利益はその根本に尊崇し奉る本尊の正邪により且つその説かれる教法の正邪によつて分かるるのである。本尊と教法が正法である時利益は期せずして現ずるは理の当然であつてその利益は又正しいのである。若し教法が不純であり邪法であるならば仮令利益をいふもそは必ず不純であり邪道の利である。故に宗教に入るには唯その利益を見て決するは冒険この上なしといはなければならぬ。故に宗教選択の道は利益を先とせず法の邪正をもつてなさねばならない。日蓮大聖人は「但し法門の邪正をもつてただすべし、利根と通力とにはよるべからず」と仰せられてあるが此れが宗教選択の要道である。」と言われ、日顕上人は「たしかにこの、いろんなおかしな利益・功徳というものを、新興宗教やいろいろな所で言っております。これは魔の通力ということもありまするし、いろいろな小さな功徳というものは、たしかにそういうものにおいてある場合があります。しかしそれは、根本の成仏という功徳ではないし、逆にその成仏の大益から見るならば、それをさえぎり、妨げるところの魔の通力であり利益となってしまうのでございます」と言っている。つまり文証も道理(理証)もない創価学会員の体験談という与太話こそ「荒唐無稽」なのだ。キリスト教や神道の神話だってそれなりのロジックはあるが創価信仰には何一つまともなロジックがない。このように経典も理論もなく、凡夫を教祖に祭り上げ、荒唐無稽の奇跡の功徳体験で現世利益を強調する宗教は例外なくカルト宗教である。自分たちの荒唐無稽さを棚上げしておいて日蓮正宗の教義を「荒唐無稽」と批判する創価学会員こそ「荒唐無稽」な人間なのである。
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