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日蓮大聖人のご生涯に学ぶ②立正安国論~小松原の法難

文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が宿屋入道を仲介として、「立正安国論」を北条時頼に提出し第1回の国主諫暁から42日目の8月27日、松葉ヶ谷の草庵で日蓮大聖人が念仏者たちに夜襲された松葉ケ谷の法難が勃発します。この時は弟子たちの護りによって難を逃れ下総国中山の富木常忍の許に身を寄せられます。この時に、大田乗明・曽谷教信が帰伏しています。翌年鎌倉に戻った大聖人を幕府は捕らえ(弘長元年(1261年)5月12日)、伊豆に流罪します。伊豆では、船守弥三郎が大聖人を護り、病気平癒祈願をきっかけに地頭・伊東八郎左衛門が帰伏し、海中より引き上げられた一体の釈迦立像物を御供養しました。この仏像が大聖人の随身仏です。またこの報を聞いた日興上人は自ら伊豆の大聖人の許を訪ねその日から大聖人への随従給仕を始めました。この伊豆流罪の時に、大聖人は『四恩抄』『教機時国抄』を述作されてます。尚、松葉ケ谷の夜襲・伊豆流罪を主導した極楽寺重時は弘長元年11月に狂死しました。弘長三(1263)年の2月22日、大聖人は1年9カ月にわたる伊豆配流を赦免され日興上人と共に鎌倉に帰ります。 翌文永元(1264)年の秋、大聖人は御母・妙連の危篤の報を受け立宗宣言以来12年ぶりに故郷の安房へ向かわれました。安房の地で大聖人は花房の蓮華寺を拠点に布教に専念されました。大聖人の帰郷を聞いた天津領主・工藤吉隆の来臨を願いを受け、大聖人は11月11日、弟子・信者の十人ばかりの供を連れ、蓮華寺から吉隆がいる天津の館に向かわれましたが、大聖人の一行が松原の大路にさしかかった時に突如として東条景信が数百人の武装した念仏者を率いて襲いかかってきました。「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(南条兵衛七郎殿御書)とあるように、弟子の鏡忍房はその場で殺され、急報を受けて駆けつけた工藤吉隆も瀕死の重傷を負いそれがもとで間もなく殉死したと言われます。また、大聖人御自身も景信が切りつけた太刀によって右の額に深手を負われ、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのです。これが小松原の法難です。このように、『立正安国論』を提出以降の大聖人は小松原の法難など命に及ぶ大難を何度も蒙ることになります。このことは『立正安国論』提出以後の大聖人は上行菩薩法華経の行者としての外用の相を顕されたという意味を持ちます。つまり大聖人の外用の姿は、『立正安国論』以前は凡夫僧で、以後は上行菩薩法華経の行者)だということです。この部分は大聖人の御生涯を学ぶ上で重要な部分になります。

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